今週の説教

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《今週の言葉》

 はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。


神 の 褒 章


 今日は、マタイによる福音書第25章の最後の部分を共に、聴きました。続く次の第26章から、いわゆる主イエスの、受難物語、十字架に、ひと筋に向かわれる主イエスの歩みの記録が、そこから始まると、理解するのが、一般的な理解であろうと思います。でその十字架が立つ、直前に、主イエスはご自分の弟子たちに、最後の言葉を、言い残されました。第23章、第24章、そして今日聴きました第25章です。で今日はその主イエスの最後の言葉の、最後の部分を、読んだのです。

 主イエスが地上のご生涯を、終わろうとする、その最後のときに、そこで主イエスがご自分の弟子たちにこころをこめてお伝えになったひとつのことは“これで終わりではないよ…”と、いうことでした。これからわたしは十字架につけられて殺される。けれどもそれで終わりじゃない。わたしは必ず甦って、天に昇り――けれども実はそれでもまだ終わりじゃないんで、わたしは必ずもう一度あなたがたのところに帰ってくる、戻ってくる――。

 主イエスが第24章、そして第25章でひたすらにお語りになったことは、要するにその一点に尽きるのです。でそのことを最近の説教で繰り返しておりますけれども“再臨”“キリストの再臨”と、いうのです。

 主イエスはもう一度来てくださる。

 でそのことについて今日聴きましたところの最初のところ第25章の31節にも、こう書いてありました。

 人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。

 でそういうことが起こる主の再臨がいったいいつ起こるのか。何年後に起こるのか。あるいは何千年前後なのか――。そのときがいつであるかを私どもは知りません。けれども必ずいつか主イエスは、もう一度来てくださる。そのときすべての国の民が、その前に集められると、というのは、そのときたまたま生き残っていた人たちが、というのではなくて、既に死んでしまったひとたちも含めてすべての人が主イエスの、栄光の前に立たされる。いったい何千億人になるのか見当もつきませんけれども――。

 でそういう途方もない場面の中で、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く、と――。そのように世界の歴史が、総括されると、言われるのです。

 これはたいへん途方もない、イメージの物語ですが、しかし皆さんも、こういう終わりの日のことを想像しないわけではないと思います。

 で我々が生きている地上の世界というのは、嬉しいことも悲しいこともありますし、幸せなことだってたくさんあるに違いないんですけれども、やっぱり我々が生きているこの世というのは仮の世であって、生きづらいことも多い。何よりも私どもがよく知っているのは私どもの地上の生活というのは必ず、死によって断ち切られる、中断されるということです。けれどもおそらく皆さんの多くは、それですべてが終わるとはお考えにならないだろうと思います。きっと、その死の向こうに、なお、別の世界が拡がっているに違いない――。

 でその死の向こう側の世界のことを、私どもは、一度も見たこともないのに、だからこそあれやこれやといろいろと想像するのです。死んだらこの人に会いたいとか、この人にも会いたいとか、先に死なれた子どもに会いたいとか。けれども、あの人には会いたくないなあ…とか、あの人だけには会わせる顔がないなあとか、いろんなことを考える。

 けれども大事なことは、その死の向こう側においてなお私どもは、主 イエスの前に立たなければならない、ということです。ひとりの責任をもった人間として主イエスの前に立たないといけない。そこで何が起こるのか、ということについて、ここでは主イエスご自身が、その向こう側の世界の姿をチラリと、私どもにも見せてくださいました。

 そこで主イエスが言われることはしかし、決して複雑なものではありません。

 ついに私どもが、というよりもこのわたしが、イエス様の前に立たされるというときに、“いったい何を言われるか”というようなときに、主イエスがこのわたしに何と言われるかというと、

 あのときはどうもありがとう。あのときはほんとうに助かったよ。

 そういうことを言われるっていうんです。

 あのときはありがとう。あなたはあのとき、わたしが飢えていたとき、食べ物をくれたね。わたしの喉が渇いていたときに、飲ませてくれたね…。

 そのあとの“旅をしていたとき”という言葉がありますが、ここは翻訳が微妙なところで、聖書協会共同訳という最近の翻訳では、ここは“よそ者”と訳されました。寄る辺ない外国人、ということです。たとえば“難民”という言葉がいちばん近いかもしれません。わたくしがそのように、家さえ失っていたときにあなたは、わたしのことをちゃんと迎えてくれたね。そして、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたね。ほんとうにありがとう、と――。

 いったい何千億人というひとが集まるっていうときにどうやってそういうことをなさるのか、ちょっとその辺のことは想像すらできませんが、世界の歴史が終わるそのとき、世界の主であられる方ご自身が、すべての歴史を総括なさる。そのときに問われることはただひたすらにこのことであって、

 最も小さい者のひとりに、わたしが何をしたか。あるいは何をしなかったか――。

 そしてそれはとりもなおさず、わたしがあのイエスというお方のために、何をしたか、あるいは何をしなかったか――。

 世界の歴史を裁く、その点はただこの一点にかかっている、と言われたのです。そして、40節です。

 そこで王は答える。はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。

 わたしの兄弟であるこの最も小さな者のひとりに――あなたは何をしたか。何をしなかったか。それはつまり、わたしイエスのために、あなたは何をしてくれたか、何をしてくれなかったか――。

 それ以外のことは何にも問われないって言うんです。

 でこの聖書の記事は、話としては何も難しいことはないだろうと思います。子どもにだってわかる話です。けれどもだからこそ私どもはこの物語を、読みながら、どこか、困惑するこころがあるだろうと思います。でこういう話を読みながら、いったい皆さんは、何をお考えになるか。こういうことを考えますともうわたくしのような者がひとりで話すようなことは止めてしまって、むしろ皆さんと膝をつき合わせて語り合いたいような思いさえ致します。

 でここで主イエスが問うておられること、それはひとつの言い方をすれば“愛である”と、まずそう言うことができるだろうと思います。最も小さい一人の者のために食べ物飲み物を与え、困っているときには助け、というような――。

 しかし考えてみればこういうことは実は“愛”と大げさに呼ぶようなことではないかもしれません。喉が渇いているひとにコップ一杯の水を飲ませたからって“わたしはこれだけの愛のわざをしたんだ…”なんてそんなことを大げさに言うことは、ないだろうと思いますし、実際にここで主イエスの前に立たされた人たちは “ありがとう”と“その節はありがとう”と言われて“えっ…いつのことですか!?

 そういう感想を漏らしています。

 ところが、そういう小さなことが、世界の歴史の総括のときにただひとつ問われることだと、言われるのです。

 これはたいへん驚くべきことだと思います。神がいったい私どもの生活、というものを、どういうふうにご覧になっているか――。何が大事で、何が大事でないのか。そのことに改めて、気づかされるだろうと思います。

 そしてそれはもっと言えば、今私どもが地上の生活をしながら、いろんなことで苦しんだり、悩んだりしながら、私どもの、長いようで、短い私どもの生活の中で、結局いちばん大事な問題は何か、と――。それを主イエスはどうご覧になっているのか。そのことにも気づかされるだろうと思います。

 問題は私どもが、愛に生きているか、ということなのです。“愛”と呼ぶほどでもないような小さなわざに、徹することができているかという、ただそのことなのです。単純なだけに、だからこそ我々を当惑させる聖書の記事だと思うのです。でこのまことに単純な聖書の物語から、私どもが学ぶべき聴き取るべきことは、たいへん多いと思います。たった一回の礼拝でそのすべてを聴き取ること語りきることは、不可能だろうと思います。

 しかし、何と言っても第一のことは、私どものした小さなわざを、主イエスがどんなに重く受けとめてくださっているか、ということです。私どもが目に留めないようなことであっても、主イエスは重く受けとめていてくださる。私どもの愛のわざに報いてくださるのは、主イエスだ、ということです。

 あなたの愛のわざは、どんなに小さくても、永遠の価値を持つ。それを他の誰が評価しなかったとしても、他の誰に誤解されたとしても、わたしはあなたがしてくれたことを忘れない。わたしがあなたに必ず報いる…

 と、そう言われるのです。

 それは逆に言えば、そのように主イエスが重く量っていてくださる愛の重みを、量り損なうからこそ、私どもは現実にはなかなかこういう愛のわざに徹することができないのだと思います。そうではないでしょうか。

 自分はこんなに一所懸命やっているのに、こんなに頑張っているのに、誰もわかってくれない、誰も評価してくれない、誰も有り難うなんて言ってくれない、と、思い込むとき私どもは、自分でもおかしな程にイライラします。そしてそのように苛立っている自分のこころというのは、既に愛の名に値しない、ということを、理屈ではわかっていながら、それを自分ではどうしようもできないのです。そして事実私どもの愛のわざは、しばしば徒労に終わります。

 誰からも、何の、有り難うも何にもないということが実際に起こるのです。年老いた親に仕えるというとき、あるいは子育てに苦労するというようなときに“あんたを育てるためにどんなに苦労したと思ってるんだ”というようなことを、考え始めた親が、既にいちばん子どもにとって有毒だというようなことを、理屈ではよくわれわれはよくわかっていながら、けれども、自分が当事者になると、たちまちそのことで私どもは死にたくなるほどに、思い煩うんです。そのようなときに、40節。

 はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。

 この主イエスの言葉がいったい私どもにとりまして、いかなる意味を持つでしょうか。これは簡単なようで、そんなに簡単な問題ではないと、思います。

 先週このようなことを考えておりましたときに、たまたま、ちょっとおもしろい経験をしました。おもしろいって言ったら申し訳ないのですけれども――わたくしは、時々、気分を変えて、秘密の喫茶店で説教の準備をすることがあります。牧師館でも、教会でも、幼稚園でもない場所で、これは、誰にも教えておりませんし、文字通り“秘密”ですから今後も教えるつもりはありません。もうその喫茶店の、コーヒー回数券まで持っています。

 でひとつの問題は、あんまり静かなお店じゃない。運が悪いと隣に座ったお客さんの誰かの悪口を延々と聞かされるずっと愚痴を聞かされるなんてなんてことも起こりますが――。まあ、店のオーナーさんによりますと、わたくしも聖書を広げてノートを前に、ペンを持ちながらぶつぶつぶつぶつ独り言をいっているようですから、あんまり静かな店じゃない方がいいのかな、と――。

 で先週“よし、久しぶりに行こう”と、説教の準備をしておりましたら、60歳くらいの、娘と、80をとっくに過ぎたかな、もしかして90ぐらいかな、というお父さんとおぼしき2人組がやって来て、食事を始めました。でこのお父さんというのが明らかに足もとがおぼつかない。とぼとぼ、よろよろ、歩きながら、けれども絶対に娘の手を借りようとしない。明らかに拒否しているな、と見てわかります。

 で席に着いても食事が終わってもあんまり会話はしない。でけれども娘さんが何か思い詰めたように言いにくそうに、“ねえ…お父さんこれからどうするの”とか“お母さんのこともあるんだし”とか――もちろんこちらも断片的にしか聴いていませんけれども――ところがこのお父さん、返事もしない、娘に目も合わさない。でおもむろに立ち上がって、またとぼとぼよろよろ、どこに歩いて行くのかな、と思ったら、スポーツ新聞を持ってきて娘の目の前バサッと広げて、読み始めて…。ついに、わたくしも思わず “おい、じいさん、返事くらいしろよ”と、こころの中で、言いたくもなりましたが――。

 いや、ちょっと待てよ、と。もしこのおじいさんが、イエス様の化身だとしたら――。今ここではうんともすんとも言わないこのお父さんの代わりに、世の終わりには、イエス様が、この小さな者のひとりになり代わって“よく支えてくれたね。ありがとう”“わたしの兄弟である、この最も小さいあなたのお父さんしてくれたことは、すなわちわたしにしてくれたことなのである”と、言ってくださるか、どうか――。

 でそうするとこのたいへん気の毒なお嬢さんに対しても、“今はたいへんだろうけど、世界の終わるときにはきっと報われるから頑張ってね”と言って、励ますんだろうか。“あなたの、お父さん、すごく態度悪いけど、実はこれイエス様ですよ、がんばってね…”と、励ますんだろうか――。

 皆さんはどう思われるでしょうか――。なんかそれはちょっと話が違う、と。イエス様がおっしゃったことと似ているようだけれども、何かやっぱり違う…と、きっと皆さんの多くはそのことに感づかれるだろうと思います。しかし、いったい何が違うんでしょうか。もう一度そこで改めて40節を読んでみます。何度でも読んでみます。

 王は答える。はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである

 わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人に――。

 誰のことでしょうか。いろんなひとのことを考えるだろうと思います。

 そのひとりにしたのはすなわち、わたしにしてくれたことなのだ。

 ある神学者がこの40節について、こういうことを書きました。

 ここで問題になっていることは、我々が、貧しいひと惨めなひと迫害されているひとを、みじめなひとを、キリストと同一視することではない。あのお方が同一視なさったのであり、なさるだろう、ということが問題なのである。でこれ聴いただけでわかった方がいたら逆にビックリですけれども――つまりもう少し丁寧にいうとこういうことです。

 ここで問題になっていることは、我々が、貧しいひとをキリストと同一視することじゃない、と。つまり、周りをキョロキョロ見回して、あれはイエス様だ助けなきゃ…あ、あそこにも助けなきゃならないひとがいる、あれはイエス様なんだ助けなきゃ…と。うちのお父さん有り難うのひと言もないし、ほんと腹立つけどこれはイエス様なんだから頑張らなきゃ…と、いうように、貧しいひとをキリストと同一視する我々がそれをするなんてことはまったく問題にもならない。そうじゃなくて、同一視をしてくださるのは主イエスご自身だ、と。

 あのお方が、最も小さな者であるこのわたしと、ご自分を同一視してくださって

 このひとの痛みはわたしの痛み、この人の悲しみはわたしの悲しみ。このひとの孤独はわたしの孤独。このひとは、わたしの兄弟なんだ…

 と、そのように、イエス様が、このわたしを、ご自身と同一視してくださる。そのためにこそ主イエスは人としてお生まれになり、十字架という、最悪の最期を迎えなければならなかったのです。それは言い換えればこのお方は、神であれたのに、コップ一杯の水によって慰められなければならないような、そんな小さな存在になってくださったのです。この最も小さい者と、ご自分を同一視してくださったというのはそういうことです。

 考えてもみてください――。考えることもできないほどではないですか。このお方は、飢えているときに食べさせてもらわなければ、ならないような、神となられたのです。喉が渇いていたときに、コップ一杯の水によって慰められなければならないような、そういう神となられたのです。難民であったときに、宿を貸してもらわなければならない神、裸のときに着せ、病気のときに見舞い牢にいたときに訪ねてもらわなければ、ならない神。いったい誰がそんな神の姿を想像することができたでしょうか――。

 けれどもまさにそのようにしてこのお方は、ご自身を、私どもと同一視してくださって、そして、こう言われたのです。

 はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。

 主はそこまで私どものことを重んじてくださったのです。私どもが、小さかったからです。そのことを知るとき、わたくしどももどうしたって、なお貧しさの中にある隣人のために、小さな愛のわざを献げないわけにはいかなくなるし、そのような私どものわざを、主が永遠の価値をもって受けとめてくださると、そのことを確信することができるのです。

 わたしの兄弟である、この最も小さい者の一人――

 という、表現がありました。ほんとうにそうだと思います。私どもも小さかったのです。その小ささのゆえに、私どもは躓いたり、失敗したり、何よりも、愛において挫折するんです。

 『ハイデルベルク信仰問答』という、古典的な教会の書物に、こういう言葉があります。

 わたしたちは生まれつき、神と隣り人とを、憎む傾向にある、と。

 ――そう言うんです。

 これは、かなりキツイ言葉ですが、わたくしはこの言葉を素直に信じております。まだ若いくせに偉そうに、と思われるかもしれませんが年を重ねれば重ねるほど、この信仰問答の言葉は、ほんとうだと、思わされています。

 わたしたちは生まれつき、神と隣り人とを、憎む傾向にある。

 私どもが小さいっていうのは、体が弱いとか、物覚えが悪いとか、不器用だとか、お金がないとか、いろんなことを考えることができるかもしれませんけれども、結局のところ私どもの小ささというのは“生まれつき神と隣り人とを、憎む傾向にある”という、この一点に尽きるのだと思うのです。そしてそのために私どもは、どんなにお金を持っていたとしても、飢えるんです、渇くんです、孤独になるんです。

 けれどもそのような私どもが救われるために、ただひとつ必要であったことは、あの、お方が、わたしのきょうだいになってくださることでしか、なかったのです。

 このひとの悲しみは、わたしの悲しみだ。この人の貧しさは、わたしの貧しさだ… と――。

 最も小さい者の一人である、このわたしと、ご自分とを同一視してくださった、このお方の恵みによって、私どもは、立つのです。

 あるひとは言いました。

 はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人。

 「この、小ささ、というのは、助けてもらわなければ生きていくことができないということだ」と、単純にそう言うんです。ほんとうにそうだと思います。しかも私どもはしばしばそのことを忘れます。神の助けなんかなくたって生きていける と思い込んでいます。

 そうじゃない。あなたは神の助けがなかったら、あの主イエスの十字架がなかったら、立つことさえできない人間ではなかったか――。

 わたしたちが生まれつき、神と隣人とを憎む傾向を持つために、私どもが飢え、渇き、孤独になるときに、そのとき何が必要かといえば、主イエスがわたしのきょうだいになってくださるということでしかありません。わたしのお兄さんである主イエスの知らないわたしの悩みはない。そしてわたしのお兄さんがご存じない、わたしの悩みは、ないのです。

 そのことを明らかにする、主イエスの、十字架にひと筋に向かう歩みであったのです。

 先週半ば頃から、説教の準備が深まるにつれて、“ああ…きょう、ほんとうは歌いたかったなぁ…”と切に思います曲は、讃美歌第二編の15番です(讃美歌は1週間前に告知しますから…)。この讃美歌第二編15番は、十字架につけられた主イエスを、こころから賛美する歌です。第2節で、

 茨の冠雄々しく受けて――。そのみ苦しみはただひたすらに私どもに対する、愛のゆえでしかありませんでした。

 私どもは、ほんとうは、ひとのために苦しむことができない存在です。

 “どうして自分がひとのために苦しまなければならないか…”と、思い込んだときに、これに耐えることは容易ではありません。

 けれどももしその苦しみに対して、何かの手応えがあれば、案外私どもは、その苦しみに耐えることができるのです。だがしかし私どもは、ほんとうの意味で苦しまなければならない、ほんとうの意味で自分を犠牲にしなければならない、そういうときに、“いや、お金なんてもらわなくたっていい、感謝なんてされなくたっていい、誰も分かってくれなくたっていい――。けれどもそのように私どもが自分を犠牲にしたことが誤解され責められ悪口を言われるようなことになったら、さすがに私どもは参るだろうと思います。

 けれども、主イエスが十字架につけられたとき、誰も有り難うなんて言いませんでした。十字架につけられたイエス様のことを、誰ひとり褒めるひとはおりませんでした。だからこそイエスの苦しみは、ほんとうの苦しみであり、しかもそれは、私どもの苦しみとひとつになるような苦しみに、なったのです。

 このお方は、「むちと嘲り、忍びしイエス」と言います。

 暴力と嘲りだけが、主イエスに与えられた報酬でありました。しかもこのお方はついにひと言も反論なさいませんでした。すべてを正しく裁いてくださる神に、すべてを委ねておられたのです。そのようにしてこのお方はわたくしの、兄弟、私どもの兄弟と、なってくださいました。

 この、讃美歌が、もうひとつ、最後の第3節で控えめに想い起こしている、十字架の場面があります。たいへん不思議なことが起こりました。主イエスの十字架の両側に、なお2人の犯罪人が一緒に十字架につけられていたと言うのです。その片方の犯罪人は最後まで、主 イエスのことをののしり続けました。けれどももう片方の犯罪人が、それをたしなめて言いました。

 お前は神をも恐れないのか。我々は自分のやったことの報いを受けているだけだ――。けれども見るがよい、このお方は何にも悪いことをしてはおられない… そしてイエスに申しました。

 イエスよ、あなたがみ国においでになるときには、どうかわたしのことも、想い起こしてくださいませんか――。

 でそうすると主イエスは、

 今日、我とともに御国にあれ…

 との、やさしきみ声を、聴かせてくださいました。

 私ども一人ひとりに等しく与えられた、祝福の言葉であると、信じます。わたくしどもの、兄弟となってくださった。この主イエスの苦しみ、そしてこの主イエスの確かな祝福が、皆さん一人ひとりの生活を、その、愛のわざを、しっかりと支える力となりますように――。